バーに欠かせないもの…人、カクテル、そしてウイスキー。
現在、国産ウイスキーの価値は著しく高騰、今回はこれに至る経緯や日本におけるウイスキーを取り巻いてきた市場、変遷を辿っていきたい。
ウイスキーはそもそも生命の水と謂われ1171年アイルランドで発見された。琥珀色になったきっかけは1707年、イングランドを中心とした大英帝国がスコットランドのウイスキー業者に麦芽税を徴収し始めたことに遡る。徴税を免れようと生産者たちは透明な原酒を山中のシェリー樽に隠し、何年かして様子を窺いにに行くと 原酒は琥珀色に深まっていた。正しく偶然による産物だった所以だ。
日本におけるウイスキーはペリー浦賀沖入港際持ち寄ったとか、織田信長に宣教師はポルト酒と献上したと諸説はあるが定かではない。
只、普及に至る経緯を遡るとやはり鳥井信治郎、竹鶴政孝たちが黎明期を築いたといって過言でなかろう。摂津酒造の阿部喜兵衛のもと竹鶴がスコットランドに渡航する際、船を見送ったのは鳥井と阿部に加え、後のニッカウイスキー筆頭株主となる山本為三郎氏もいたといわれている。サントリーとニッカは戦前戦後の困難を乗り越え、日本人がウイスキーの味に慣れ親しまれるように時間をかけ日本酒の消費量を超える国民酒まで育てあげたのです。
ここからは、日本におけるウイスキーの変遷。
1945年の終戦から1950年代、戦後復興の牽引となったのは製造業、一般家庭における冷蔵庫の普及がウイスキーの味わいを慣れさせていったのではなかろうか。冷蔵庫が茶の間の必需品となって冷やしてビールを飲まれるようになったことにより消費が加速。あれだけ煙たがれたウイスキーもビールの麦汁に慣れ親んだ事で、抵抗が薄らいていったと言えましょう。
1961年、竹鶴の愛妻リタの逝去。
塞ぎ込んでいる竹鶴に、アサヒビール山本為三郎社長はカフェスチルの導入を勧め、ハイニッカ、ブラックニッカ、スーパーニッカなどのソフトな味わいのウイスキーを作りこれが売れた。サントリーの広告戦略も目を見張るもので、トリスバーの出店攻勢と併せ、バーならではの飲酒スタイルを確立していきます。例えばJALが憧れのハワイ航路を就航させると、しっかりと便乗し、「トリスを飲んでハワイに行こう」キャンペーンが、お茶の間のテレビで大々的にCM、戦後復興を象徴する酒として認められるのです。
ウイスキーは単に酔う為の酒ではなく、文化をまとった酒として地位を固めていったのもこの時期であったのではないでしょうか。
いよいよウイスキー消費が日本酒に変わり1位となったのは1962年から1989年、原酒混和率による税率差に伴う級別制度は、経済成長期と我が国のサラリーマン市場とマッチした。
大衆商品の2級と高級路線の特級ウイスキーの区分はとてもわかりやすく、例えば「平社員はトリス」、「係長はホワイト」、「課長で角瓶」、「部長社以上はオールド」といった「出世酒」の形式が成り立っていく。そして景気の向上に準じ1980年、オールドの生産量は1240万本と世界のトップクラスになる。
もう1つ市場を牽引したのが、1970年代からの台頭した日本特有の「スナック」という業態。スナックは、アルコールが強いウイスキーを水で割って軽やかに飲むことを進める。ママやホステスとは次回来店の約束の象徴「ボトルキープ制」というシステムが根付き、これによってメーカーは需要を見込めスナックへの営業支援も容易となるのです。
この台頭で、他人より高級な酒を飲みたいという自己顕示欲を満たし、見栄消費も大きく業態を支えた。やがて80年代になるとママやホステスとの「会話」から「カラオケ」時代に入り、その頃からウイスキー市場は縮小を辿るようになる。やがて、飲酒傾向の多様化時代80年代に突入。乙類焼酎、低アルコール、ワインの時代を経ながら、2005年にハイボール再燃によってウイスキーは復権をみせた。
そして2016年、NHK朝ドラやインバウンド戦略が追い風となり、あらゆる国産ウイスキーが世界より注目を浴び始める。そして現在、国内大手メーカーは2000年前後ウイスキー低迷期と謂われた生産調整による原酒不足、重ねて将来を見据えた貯酒、出荷抑制によって、これまで愛飲していたウイスキーの入手が困難を極めている。然しながらこのような時代だからこそ、日本が誇るものつくりへのこだわりを矜持とし伝えてゆくことが大切だと知らされるのです。
皆さま今日の晩酌はウイスキーで如何でしょうか。
美味しい召し上がり方は、また今度お教えいたしますね。