有名店、繁盛店には必ずといっていいほど、「顔=人」がいます。その「顔」は急に出現し台頭した訳ではなく、長い苦労と厳しい経験を経て今に至っているのです。
それはあたかも伏流水が地面に滲みこむように、じっくりと長い時間を費やしているのです。そして、BARというのは「顔」があるか否かで、店の性格や形態が左右されると言われます。
僕もバーを利用する際、訪ねるのは、やはり「顔が見えるBAR」を訪ねます。
そこへは安らぎと同時に何かを感じたいとか、癒されたいと心に秘めながら、その時間を求めるからです。
BARに顔が必要な理由を挙げるとすれば、「日本のBAR」は欧米と違う異種独特のスタイルが確立されているということが言えるでしょう。
例えば10坪ほどの手狭な店構えの中に、顔を囲んでビッシリと席が埋まる光景。これは日本特有なものだと、外国人は口を揃えます。
別段、豪華でもなく、寿司がでるわけでもなく、BGMがある訳でもない。外国人には異様な光景とも映るようですが、これは江戸間に伝わる空間で、日本ならでは寛ぎという世界の体現でもあります。
同時に、茶道に伝わる一期一会や、カウンター商売に育まれた所縁では無いでしょうか。
そのように、バーに心を寄せる人々はその顔にグチをこぼしたり、励まされたりとチビリチビリやるのが醍醐味で、その顔次第で空間や味わいが様変わりするものなのです。
その絶妙な空間こそが顔の個性であって、店選びの要になってくるのです。
ある先輩が「やがてBARというスタイルも将来大きく変貌を遂げる」と言っておりました。それは我々が絶対に固執しなければならないカタチを崩さなければならないという意味も含んでおり、ある種の畏れすら感じます。時代背景からも言える事ですが、現代は若年層の飲酒離れ、高齢化、受動喫煙法、道路交通法…そして高級店(本物)や激安店の台頭。
ホテルの場合、都市部を中心に益々外資が投入され、それこそラグジュアリー嗜好と激安ホテルが対極的に人気を集めています。
ラグジュアリホテルのバーは喫茶と併用した高級ラウンジに様変わりし、顔や会話といった要素は益々省かれ、プロフェッショナルの醍醐味である「顔からの商売」とはかけ離れています。
黒船の襲来を思わせるそのような流れは、「日本のBAR」にとって固執しなければならないカタチを崩し、茶道から脈々と流れる「日本のBAR」の存在自体を消失させつつあるのではないでしょうか。
大切なのは目先の潮流ではなく、人や過去未来などの時間軸を意識しながら、研鑽していく顔をもつことであると心に強く思うのです。